昭和四十七年二月十九日 朝の御理解
X御理解 第八十八節 「昔から親が鏡を持たせて嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心に辛い悲しいと思う時、鏡を立て、暗い顔を、悪い顔を人に見せぬようにして、家を治めよと言うことである」
家を治めよということは、心を治めよということである。心を治めるということ、心が治まらなければいけません。ここの御理解を頂きます度に思うのですけれども、これは、嫁さんが嫁入りをする時に言い持たせてやるお話であろうと思います。でもこれを少し御神意というか、深さというものを、ここから頂いて見ますと、大変な御理解だと思うですね。
私はもう八十八節というのは、もう限りなくおかげの上におかげの受けられる御教えだと言う風に申しますように、とにかくおかげを受けるということではなくて、おかげにおかげの花の咲く程しのおかげというのは、これは徳を受けるということなのです。だからどうでも、皆さん、お徳を受けないとね。いわゆるおかげの上におかげ、言うならば、親の代より子の代というようなおかげになって来ないのです。
ですから折角信心をさして頂くのですから、本当におかげにおかげの花の咲くような、親の代より子の代に、いや孫の代にと繁昌して行くようなおかげをね、頂きたいもんだと願います。皆さんもそれを願いなさらなければいけないと思うです。それで「悪い顔を人に見せぬよにして家を治めよということである」と言うところをね、心を治めよということであるということを、に焦点を置いて聞いて頂こうと思う。
皆さん、こんなことを思われんことはないでしょうか。確かにお徳を受けることに一生懸命になって、まあ言うならあられの修行もさせてもらい、本気で一生懸命信心させてもらってお徳を受けたに致しましたにしても、それが残るとはおっしゃられても、その子供が孫が、例えば、私のような信心を又して呉れるだろうかと。言うならこれは、私、大坪総一朗ということでも良いですよ。
今日只今、このようなおかげを頂いておるが、果たして二代が、三代が、私と同じような信心修行が出来るだろうか。いやそれを受け取るという力が果たしてあるだろうか。残るとは仰るけれども、これは大変なことだなあ、子供に信心を伝えておくことは大変なことだなあ、何かちょっとこう不安な感じがする。
折角例えば、お徳を頂いて、沢山な心の上にも有難い、形の上にも有難いおかげを頂いておっても、これは自分一代で仕舞えるのじゃなかろうかと。子供に果たして、この世にも残り、あの世にも持って行けるのが神徳じゃと仰るが、果たしてその神徳というものが、子供がそれを受け答えられなければ。だからこれは子供も大変だなあ、子供もそれを受けられるための、力を受けるための信心が大変なことだなと、これはもう自分一代で終わるとじゃなかろうかなあと言った風な不安がちょっとかすめる。
私、昨日の朝、いつも控えで三十分間じっと御祈念の時間を待たせて頂いとると、フッとそんなことを考えた。いわゆる教祖の御言葉をちょっと疑うたことになりますよね。あの世にも持って行け、この世にも残しておけると。そしたらね、御心眼にね、小さなローソクの使いかけを頂いた。
昨夜、御祭がすんで、私と秋永先生と高橋さん、久富さん、文男さんでしたか、愛子もおりましたでしょうか。四、五人でテレビ見せて頂いておりましたら、いろんなローソクが画面に出て来ました。あら、今朝あんな御教えを頂いておったたいと、又「とにかくテレビは消して仕舞いなさい」と言うてテレビを消さして頂いて、さあそして、昨夜は一時半頃まで一生懸命話さして頂いておりました。
信心の話はもう頂こうとする人が一人でもそこにおるならば、もう限りがないですね。いつもそう思います。そして今実は私は、ローソクを画面に見てから、今朝から頂いておるのを忘れておった。今朝からこげな御理解を頂いたと言うて申しますように、私が朝、三時半に出て来てそこに控えておる時に、フッと合楽でおかげを受けておるこのおかげを子供が孫が受け応えるためには、大変なこれは力が要ることだなあと思うた。そしたら、フッと不安になった。そういう事実はね、どこどこ教会の初代はああいう大徳であったのに、二代になり、三代になり、淋しくなって行く例はいくらもあるのです。
だから、それに例えば、同じようなことになるとするなら、これは淋しいことだなあと思うた。そしたら、御心眼にローソクの丁度半分位のを頂いた。いわゆる使いかけのローソクなんです。そして、その三十分の間、いろいろ懇切に御理解を頂いた。例えば、信は心なりとか、信は光なりとか言うでしょう。心に光を頂くことだと、信心は。ですからその大きな光なら光が、私の心の光が一生燃え続けると致しましょうか。そして私が亡くなるということは、その光が消えることになる訳です、一時。ところがね、残ると言うと何が残るかと言うと、その燃え残りのローソクが残るのです。光じゃなくてローソクの光じゃなくて、ローソクが残るのです。徳が残るのです。だから元をとって道をひらくものは、荒れの行をするけれども、後々のものはそういう修行をせいでも容易うおかげが受けられるということなのです。
そのローソクの受け渡しということ。いわゆる親が残してくれたそのローソクをまた受ける。只、これに火を点ずると言うことだけが、二代の仕事三代の仕事ということである。そこで親がです、信心ちゃこのように有難いものとまず私がです、自分の心が治まって
おらねばならんのです。信心ちゃ有難いもんだなあ、尊いもんだなあと。家の親父はあのような場合でも一つも驚かなかった。あのような時でもいつも喜んでおった。信心ちゃ尊いもんだなあと渡しとかんでも、分からせることだけは分からせとかにゃいかん。信心というものが有難いものだということ。
ですから、親が亡くなったら信心とは有り難いもんだなあと、信心を子供が受け継ぐことになる。そこに火がまた点ぜられるのである。その光を持ち続けることが出来る。またそれを三代に四代に伝えて行くだけのこと。だからいかにに信心が生き生きとして、喜びが有らなければならないかと。とてもそれは家の子供やら孫やらが、私がしたような修行はとても出来まい。そうすると、もし合楽に頂いとる徳というものがあるなら、その徳を受け継ぐことは出来まいかと、私の心の中に不安がかすめたらです、丁度そのろうそくを渡して行く、光を渡すのではなくてローソクを渡して行くようなもんだと御理解を頂く。してみると、成程「容易くおかげが受けられる」と仰る。只、そのためには信心が何かと、信心なんてつまらんというようなとらえ方ではなくて、とにかく信心は出来なくても、信心とは有難いものだなと。
今日の御理解で言うとです。信心によっていつも家の母の場合、家の父の場合治まっておったなあと。信心とは尊いものだなあと分からせておくだけは、いわゆる、言うて聞かせることも、して見せることもいらんけれども、そういう信心をいつも家庭の中に頂いておかねばならない。それがいつの間にか、信心ちゃ有難いものだなあということを、子供達が孫達がわかってくれるようになる。そこで、ろうそくの受け渡しが出来る。ローソクは本人が神様に心が生き生きと向かう。生き生きとしたその心で向かえば、例えば修行は出来ていなくても、それに火を点ずることが出来る。親の時と同じ光を頂いて行くことが出来るのです。
ですから皆さん、私が昨日不安に思ったようなこと、皆さんが徳を受けられても、その徳を受けて呉れる子供がおらんなら、折角頂いとったつが自分一代でしまえるなら、何かつまらんような思い方をね、なさらないということで、徳を受ける信心に弾まないならです、それは大変な損失なことなのです。だから、私共はどこでも徳を受ける姿勢を作って行くということの信心にならせて頂かねばならんことです。皆さん、おわかりでございましょうか。徳と言うものは絶対に残るもの。
もう二十何年前に頂いた御教えの中に、「徳は子ならず、子は折々の信心」と頂いたことがあります。徳は子ならずとは、どういうことであるか。孤独の弧じゃないですよ、子供の子です。徳は子ならず、子は折々の信心と。徳というものはいかにそれが残っておりましても、私はある教会のことをお願いさせてもらいよった。ある大変に徳を受けられた教会である。ところが、息子さんの代になって大変にさびれている。そこのことをお願いさして頂きよりましたら、二十四孝の筍堀のところを頂いた。ですから、親が残してくれる、私共が求めて求めて止まないものは、ここに在るのですやっぱり。ですけど、それを子供が掘り起こす素直さがなければ駄目だということです。
だから、徳と言うものは必ず残る。ならローソクにしても、火がついたままではない。こっちが亡くなった時には、その光が消えるけれども、もう次に渡した時に、信心が有り難いものだなあと、親の信心を慕わしく思う子供であるならば、すぐにこれに火は点ずる。だから、火を点ずる位は子がせにゃならん、孫がせにゃならん。本当に親の言うておることを素直に聞いてです、それこそ、この寒中に筍がある筈はないけれども、親が掘れと言ったから、掘ろうといったような素直心だけは必要なのだ。そこに私共が求めて止まないものがある。そこにちゃんと徳が受けてあるのだ。だから、徳はどうでもひとつ頂かねばなりません。
合楽に御神縁を頂いている人達が本気でお徳を頂かせて頂くことに本気にならねばいけません。そのためにはです、心を治めることに、日頃教えを頂いていることを徳に、自分の心の中にいつも心を治めておく、いわゆる土の信心です。サンズイに、ム、口と書いてある。そのことを例えば神様の御計らいとして、御事として自然にサンズイを受ける。それをム、口とは黙って受けて行くと言う、土のような信心が要求されるわけですね。徳を受けると言うこと、だからこのことにいっちょ本気で取り組まねばいけません。そして心が治まって、いつもにこやかな和賀心でおれるような、そういう信心を願いとしなければ、そういう信心に姿勢を向けなければいけない。
出来て仕舞うということではない。それでいつも自分の表情と言うかね、鏡に映して果たして、腹立たしい顔してはおらぬか、閻魔様のような顔してはおらぬか、顔が何となくずるそうな顔になっていないだろうか、心にずるいことを思うとる時、いよいよ本当の時に心を大事にしなければならんということになります。お徳を受けると言うことは、そこでお互いが恵比須さんのようにいつもにこにこにこやかにしておることは有難いですけども、いつもにこにこしとるのでは、顔に締まりがないようでやはりいかんですね。デレッとなる。ホッとこう大黒さんのようにしとったらおかしいですよね、却って。そんな表情を持った人がありますよ。私の知った人にいつも笑いござる。そして腹掻いたる心は表情がそげな表情の人がある。それじゃいかんとです、やはり。
皆さん、私共が御本部参拝をしておる時に、金光様の前に出ると、金光様が実に厳しい御表情なさいましたですね。これはもう合楽の者だけは憎うしてたまらんと仰るとじゃなかろうかと言うごとあったですね。ところがその厳しい御表情に接すると、心がもうひきしまりよったです。
だから私はどういうことかと言うとね、いつもにこやかにと、けどそのにこやかの内容と言うものは、私は神心だと思うですね。お道の信心で言うところのにこやかさ、お道の信心でのやわらかさ。いわゆる、やわらぎ喜ぶ、和賀心と言うのは神心なのです。だから神様は決して、いつもにこにこ大黒様のごと笑うてばっかりはござらんと、鉄は熱しておる時に叩けと、これが神心なのです。
本気で信心させて頂きたい、本気で修行させて頂きたい。一生懸命に燃えている時に、神様が大黒さんのようににやにやしなさるはずがないでしょうもん。だから私共の内容に
おいても、それがもう腹が立ってたまらんで、顔が真っ赤になっておる、にがい顔をしておる。腹が立ってたまらんから、表情がにがい顔になっているのではなくて、神心をもって、それが言わば厳しい表情にならせて頂く。それを見る者がです、それこそひきしまるような無言の中に、思いを与えれる程しの内容を頂きたいのでございます。
昨日いろいろそう言った信心話をさして頂きながら、秋永信徒会長がこういうことを言われる。先月○○さんと信心話をさして頂いた時の話、もうこの人は冷血漢だろうかと。金を貯めることにはもう天才的なものを持ってある。話を聞くと実に冷酷無比である。
例えば高利貸しをすると言う人達はそうである。そりゃもう催促すると気の毒かけんで、もう大概利だけでもう元金位はもろうとるけん、もう帳消しとこう等、そげなこと言いよったら高利貸しは立ちませんよね。取るものは取ったが、上にも取る。差し押さえしてでも取る。それで私は金に不自由したことはなかと、そのことを聞きながら私は思いましたです、私は自分自身を考えて、私もそういう冷酷無比なところがあるです。皆さん、感じられることがあるですか。
私はそれで、秋永信徒会長に申しました。そういう心が天地の神様の中にあるよと、私が申しました。神様の心の中に、冷酷なまでの心、優しいことも神様なら、叩かれることも神様だということなんですよ。それから、そのことをいろいろと、昨夜から休ませて頂いても、そのことを思い続けた。本当に天地の親神様の心の中に、もうそれこそ冷たい、それこそ氷のような心がおありになるかと思うと、また、たぎるような心もおありだということ。そこで、信心を頂く私共の心の中にも、そういう心が、神心が育って行くとはそういうことなんです。
そういう例えば一例とこういうことを聞いたことがあります、と言うて秋永さん方にもお話しさせて頂いたことなんです。甘木で修行なさったさ先生が、もうやっと布教に出られることが出来た。毎日お参りもない中にです。ようやく甘木に参拝さして頂けれるお初穂と、片道の汽車賃だけ出来た。それで、矢も盾もたまらん思いで、親教会、甘木教会に御参拝になった。そしてこのことは、親先生に申し上げて、「親先生本当に今日はお初穂と片道の旅費と、これだけおかげ頂きましたから、もう矢も盾もたまりませんで、御礼参拝させて頂きました。恐れ入りますけど、帰りの車賃を貸してくれませんか」と言うたら、返事をなさらなかった。そして、次々に参って来る御信者さんに、懇切に御理解はあるけど、○○さんと言う事は…。
夕方までとうとう待たされた。本当にこういうことは申し上げねばよかった、歩いてでも帰ればよかったと、申し上げるものじゃないと思うたばってんが、お願いしとるけん、帰る訳には行かず、御広前でちゃんと夕方まで待ってあった。そしたら、御取次を終わられた先生がね、当時の一銭銅貨ばっかり持って来なさった。そして、憎たらしゅうてたまらんと言うような顔で、人の前で一銭、二銭、三銭と言うて、人の前でずらっと並べられたということです。
何という冷酷な先生であろうかと思うでしょう。そげな事は信者に言うことはいらん。
立替とこうと、仰らなかったわけです、その先生は。もう恐ろしく、止むに止まれん。ようやくお初穂が出来た、車賃が出来たから、止むに止まれん気持ちから、御礼参拝させて頂いた。そのことは、一にも二にもなしに、師匠が喜んで貸してくれると思うていたが、どっこい夕方まで待たせて、しかも銅賃ばっかり一銭二銭と並べて、人の前で恥をかかせるようにして、しかもにこにこしたような顔じゃなくて、厳しい顔でそれを渡されたということ。そこにはじめて師匠の思いがわかったと言うてね。私は本当にこの人が真実助かることのためならです、そういう人の前で恥をかかせるようなこともまた神心なのです。私共、そういう極端なこともないにしても、私の心の中にいつもそれがあります。
だから成程、冷酷な高利貸の方が、金に不自由しないということは、天地の親神様の半面を持ってござるなあと思いました。お互いが親切と言うのは、成程親切一つで助かるというが、信心でいう親切とは、そげなものじゃないて。金がないなら、金持って行きなさいと言うたようなものじゃないということ。乞食が来ればすぐ恵んでやるのが、親切じゃないと。恵むことによって甘え心をつくらせることが、何の神心であろうか。心ある人達には、恥かかせても本当な信心をわからせようとなさる。時には、冷酷な迄の、言うなら取り立てもするのが高利貸なのです。あの高利貸はとにかく、冷酷無比、鬼のごとある。それが、神の気感に適うわけです。本当に神の気感に適うわけです、そういう心が。
だから、私共が、そんなら心を治めることの内容、それを私は和賀心と申しました。だからまたは、親切な心と言うてもよい、神心なのです。その神心にはです、そういうところがあるのです。また、そういう心が育って来なければいけません。願わくば、私共は、心が安らいで、いつもにこやかでありたいということは、にやにや笑うとるということではない。心がにこやかであることは、和賀心であるということは、ここんところは、教えとかにゃ出来ん。ここんところは叩いとかにゃならんところは叩ける心なのです。
金光様が、私共が御取次なさる時に厳しい顔をなさった時には、天地の神様の一面を私共に見せて下さったんだ、合楽が憎うてたまらんと仰ったのではなかった。より精進してもらわなければならぬ、よりおかげを頂いてもらわねばならんという御神意が、あのようなお姿を表して頂いたと、私は思うのです。同時に、私はその事を考えさせて頂いて、大変へんなことを発見させて頂いたような気がします。
「詫びれば許してやりたいのが親心」と仰るけれども、おかしいと私は思いますね。詫びるということはね、もう自分の罪状を認めたことになるのですよ。言うならば、そうでしょうが、けど詫びなければならんところは、詫びねばならんけれども、私は反対に、むしろ御礼を申し上げねばならない時に、お詫びをしていることはなかろうか。そして、自分の心の苛責、詫びるということは自分の罪状を認めたことになる。済みません、助けて下さいということは、それではです、心の底にそれが残っておりますから、本当のおかげにならんです。
そして、三代金光様がね、御述懐の御言葉の中にありますように、最後のところに、はじめの間は辛うて辛うてよう泣きましたと言う、御述懐の最後の御言葉の中に「御礼の足
らぬお詫びばかり致しております」お詫びはこれでなければいけんと思います。私はそのことを、秋永さんと話し合って休ませて頂いて、そのことを考え続けさせて頂いて、ここんところに思い至らして頂いた時にですね、もうお詫びしてはいけんところに、私共お詫びしよったようですね。詫びるということは、神様に罪状を認めておるようなものです。だから自分のそのことを苦しむのだ。だから金光教で言うお詫びと言うのは、いわゆる、おかげを受けておることの御礼の足りぬお詫びでなければなりません。
大変なことになりました。私共がです、どうでもお徳を受けねばなりません。お徳を受けなければ、合楽に通うて来る値打ちはないです。そのためには、私共がどうでも一つ心を治めて行こう、人に悪い顔を見せまい、見せてはならぬ。それを黙って、御事柄として、成り行きを大切にさせて頂くという信心に徹しさせて頂くという、そこで治まっておるというその内容がです、段々高度なものになってくるとです、今日は親先生は腹掻いてござるとではなかろうかと言う時はです、ひょっとすると、そういうにこやかにしている時の神心が、心の中に働いておる時と同様に思うのです。
本当にそうです。だから皆さんの心の中にもうそうです。子供なら子供に、うちの親父は怒ったことがなか、いつもにこにこして頭ばっかり撫でるという親父ではつまらない。親父は何ちゅうて、腹掻いとるじゃろうかという、腹掻いとるその腹を思うて見て、ひきしめらにゃおられない内容の厳しい顔でなければいけません。厳しい心でなくてはいけません。心からね、つまらんことで腹を立てたり、腹を掻いたり、一喜一憂したものから超越した心が、ここで言う治まった心であり、そういう心がお道で言う和賀心であり、そういう心がお道で言う神心であり、そういう心から生まれて来る心を、親切ということであります。親切な心の中には、「金を貸せ」と言うても、「貸されん」と言うのも親切です。それを、私共は親切好きになって、それこそ乞食にでも何でも恵んでおれば、親切と思うてすることは、信心のない者のすることであって、信心させて頂く者の親切ではないのです。どうぞ。